大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

鹿児島地方裁判所 昭和58年(ワ)107号 判決

原告

白石ヨシ子

他四名

右原告ら訴訟代理人弁護士

池田file_3.jpg

寺田昭博

厚地政信

被告

医療法人同心会

右代表者理事

古賀和美

右訴訟代理人弁護士

饗庭忠男

殿所哲

主文

一  原告らの各請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  原告ら

1  被告は、原告白石ヨシ子に対し、金一億三六四四万三二二八円及び内金一億二六九七万九四六一円に対し昭和五七年六月二八日から、内金九四六万三七六七円に対し本判決言渡の日からそれぞれ支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告は、原告白石幸三、同白石順子、同白石信子及び同下鑢清子のそれぞれに対し、金三四一一万〇八〇六円及び内金三一七四万四八六五円に対し昭和五七年六月二八日から、内金二三六万五九四一円に対し本判決言渡の日からそれぞれ支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告の負担とする。

との判決並びに第一、二項につき仮執行宣言

二  被告

主文と同旨の判決

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  当事者

原告白石ヨシ子は医師であった訴外亡白石幸弘(以下「白石医師」という。)の妻、その余の原告らは同医師の子であり、いずれも同医師の相続人である。

被告は昭和二六年一月一八日設立された医療法人であり、宮崎市祇園二丁目一三三番一に精神病院緑の園(以下「緑の園」という。)を開設していたものである。

2  本件事故の発生

精神分裂病で緑の園に入院していた訴外B(昭和一五年三月二〇日生。以下「B」という。)は、昭和五七年六月二五日、主治医山下盛尚(以下「山下医師」という。)から同月二七日までの外泊(以下「本件外泊」という。)の許可を得て自宅に帰り、帰院予定日であった二七日午後二時三〇分ころ妻Cが帰院のため呼んだタクシーに乗って一人自宅を出たが緑の園に帰院せず、翌二八日午前九時二〇分ころ、鹿児島市薬師一丁目一二番八号白石内科病院(医療法人白光会、代表者理事白石医師)において、患者を装って診察室に入り、隠し持っていた刺身包丁二本をもって白石医師に襲いかかり、同医師に対し腹壁切創、腸管損傷、背部切刺創外数か所の切創を負わせ、同年七月一日午前七時三五分鹿児島市立病院において右受傷のため死亡させた(以下「本件事故」という。)。

3  被告に責任原因

(一) 本件事故当時Bは心神喪失の状態にあった。

ところで、Bは、昭和五三年四月一四日緑の園で精神分裂病との診断を受け、以後妻C(以下「C」という。)の同意の下、本件事故発生に至るまで緑の園の閉鎖病棟に入院して治療を受けていたものである。

したがって、緑の園を開設していた被告は、心神喪失の状態にあったBの法定監督義務者であるCに代って入院中のBを監督すべき義務を負っていたものである。よって、被告は、心神喪失者であるBが犯した本件事故について責任無能力者の代理監督義務者としての責任(民法七一四条二項)を負うものである。

(二)  (一)の主張に理由がなく被告が代理監督義務者ではないとしても、山下医師はBの主治医であるから代理監督義務者であり、被用者がその職務執行に付随して第三者に対して損害賠償義務を負担する場合、使用者も民法七一五条、七一四条に基づきその責任を免れないものと解されるから、被告には右の意味での責任がある。

(三) 仮に以上の主張に理由がないとしても、被告が開設していた緑の園に勤務していた山下医師は、本件事故の発生につき次のとおり不法行為責任を負うものであるところ、右不法行為はいずれも被告の職務の執行につきなされたものであるから、被告は本件事故につき民法七〇九条、七一五条に基づく責任を負うものである。

(1) ところで、Bは、前記のとおり精神分裂病で緑の園の閉鎖病棟に入院し、山下医師を主治医として治療を受けていたものである。

(2) Bは昭和五二年五月一九日白石内科病院において診察を受け、同年七月から一一月ころまで同病院に入院して慢性膵炎、十二指腸潰瘍の治療を受けたが、この間白石医師の指導によりBはもとより長男D(昭和四七年六月一八日生)、二男E(昭和四九年一月六日生)らも大高酵素を服用した。ところが、Bは大高酵素の服用により二人の子供の成長が停止したとの心気妄想を持つようになり、白石医師に対し深い怨みを抱くに至り、緑の園に入院後も右妄想を反覆しており、特に本件事故直前には右妄想の固定化が顕著に見受けられ、山下医師もこれを知っていた。

ところが、山下医師は、昭和五七年六月二五日Bの外泊許可をなすに当って、右のとおりBの病状は良くなかったのに、何ら診察をしないで、あるいは仮に診察したとしても充分な診察を行わないで安易に外泊を許可し、更に、外泊時の家族による送迎について徹底した指導を怠ったためCがBを単独帰院させることとなり、もってBをして本件事故に至らしめたものである。

また、山下医師は、Bが外泊許可の帰院時刻を過ぎて行方不明になったことが判明した時点(二七日午後六時ころ)で警察に通報をなし、且つ、Bから怨みを持たれていた白石医師に対して電話連絡をするなどの措置をとって本件事故を未然に防止すべきであったのに漫然これを放置し本件事故を惹起せしめたものである。よって山下医師は本件事故につき一般不法行為責任(民法七〇九条)を負うものである。

4  損害

(一) 逸失利益 金二億二二九五万八九二二円

白石医師は大正八年六月一日生れ、死亡時六三歳であった。その場合就労可能年数は一般的には七年であるが、同医師は長年にわたり自然食療法等で健康については細心の注意を払っていたので、少くともあと一〇年間は十分就労しえたはずである。白石医師の昭和五六年の収入は四〇〇八万九七一〇円であり、内三〇パーセントを生活費として控除するのが相当である。

(算式)

4008万9710円×7.945(10年のホフマン係数)×(1−0.3)=2億2295万8922円

(二) 慰藉料 金三〇〇〇万円

(三) 葬祭費用等(墓碑建立費用を含む。) 金一〇〇万円

(四) 弁護士費用 金一八九二万七五三四円

鹿児島県弁護士報酬規程によると、訴訟物の価額が二億五三九五万八九二二円の場合、標準着手金及び謝金はそれぞれ九四六万三七六七円である。

合計 金二億七二八八万六四五六円

5  損害賠償請求権の相続

白石医師の相続人は妻である原告白石ヨシ子、同女との間の子であるその余の原告らである。よって、前記白石医師の死亡による損害賠償請求権を相続分に応じて、原告ヨシ子が二分の一、その余の原告らが各八分の一宛相続した。

6  結論

よって、原告ヨシ子は被告に対し、前記4の損害金の二分の一である金一億三六四四万三二二八円、及び右金員中弁護士費用を除く内金一億二六九七万九四六一円につき本件事故発生日である昭和五七年六月二八日から、内金九四六万三七六七円(弁護士費用)につき本判決言渡の日から、それぞれ完済に至るまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求め、その余の原告らは、各自、被告に対し、前記4の損害金の八分の一である金三四一一万〇八〇六円(一円放棄)、及び右金員中弁護士費用を除く内金三一七四万四八六五円(円未満放棄)につき本件事故発生日である昭和五七年六月二八日から、内金二三六万五九四一円(弁護士費用、円未満放棄)につき本判決言渡の日から、それぞれ完済に至るまでの年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求の原因に対する認容

1  請求原因1、2の事実は認める。

2  同3について

(一) (一)の事実中、Bが昭和五三年四月一日緑の園で精神分裂病様状態との診断を受け(精神分裂病との診断はない)、妻Cの同意の下直ちに入院し、本件事故発生まで閉鎖病棟に入院して治療を受けていたことは認め、その余の事実は否認する。

Bはいわゆる措置入院(精神衛生法二九条)ではなく同意入院(同法三三条)の患者であり、且つ、本件事故は病院に入院中の出来事ではなく外泊して法定監督義務者のもとにいる際の出来事であって、被告は代理監督義務者(民法七一四条二項)にはあたらない。

(二) (二)の主張は争う。被告がBの代理監督義務者にあたらないとの同様の理由から、山下医師もBの代理監督義務者にはあたらない。

(三) (三)の冒頭の事実中、山下医師が被告の開設した緑の園に勤務していたことは認め、その余は争う。

(1) (1)の事実中、Bは精神分裂病で緑の園の閉鎖病棟に入院し、山下医師を主治医として治療を受けていたことは認め、その余は否認する。

(2) (2)の事実中、Bは昭和五二年に白石内科病院に膵炎で約五か月間入院して酵素断食療法を受けたこと、緑の園に入院後酵素を飲んだとき内臓が溶けて子供二人の成長が止まったというような心気妄想があり、本件事故前には右心気妄想が固定していたこと、山下医師も右心気妄想を知っていたこと、CがBを単独帰院させたことは認め、その余は否認する。

3  同4は争う。

4  同5の事実中原告らの身分関係は認め、その余は争う。

三  被告の主張

被告または山下医師がBの代理監督義務者にあたるとしても、次に述べるとおり、被告及び山下医師はBの代理監督者としての監督義務を怠らなかったものである(民法七一四条一項但書、同条二項)。

1  治療方法としての外泊の重要性

精神病の治療は、閉鎖病棟治療から開放病棟治療へ、更に外来治療へと向かっている。精神分裂病もかつては不治の病と考えられ、ただ閉鎖病棟に収容して社会から隔離するだけであったが、約二〇年前ころから各種の精神症状に治療効果を示すいわゆる向精神薬物が多数開発され、薬物治療法が主たる治療法となり、それにより患者の自閉性を改善し自発性を快復させ社会復帰させることも可能になった。右治療法をより効果的なものとするためには、患者の自由行動を制限せず、できりだけ開放病棟に収容して自由行動をさせながら治療すべきであるとともに、あらゆる機会をとらえて社会復帰の可能性を検討する必要があり、外泊はその有力な手続の一つとして位置づけられている。

右薬物治療法は現代精神医学上確立した治療法であり、緑の園の入院治療方針も右治療法に則っているものである。

ところで、Bを過去一七回外泊させたのは、①閉鎖病棟内における集団的、他律的な規則にしばられた生活から一時離れ、自由な人間性の快復をはかる、②妻子、近隣の人達との挨拶などを通して対人関係の改善をはかり、併せて父として夫としての自覚を促す、③仕事(掃除、草取り、散水等)を通して社会復帰した場合の就労の契機とさせる、④子供に対する疾病妄想(心気妄想)を子供と接触することによって少しでも消褪させる、などの治療目的をもっていたからであり、右外泊の結果、Bは入院当時みられた狐立化、無関心、働きかけがないと何もできないといった病状が徐々にではあるが変化をみせるようになり、他の患者と時に談笑したり、呼びかけにすぐ応じるようになったり、働きかけがなくても布団の上げ下ろし、掃除、配膳の手伝い、服薬等も自然にできるようになった。子供についての心気妄想も次第に沈静化し発言の頻度も問われれば喋べる程度に快方に向かっていた。もし外泊しなかったならば、その妄想はますます肥大化していったものと思われる。

要するに、Bにとって外泊という治療方法が必要だったのである。

2  外泊時の保護者による送迎の程度

同意入院の場合の外泊の際、緑の園では保護義務者に対し患者の送迎について十分な注意を与え、病院から自宅へ帰るときは必ず家族に迎えに来て貰うか、自宅から病院へ戻るときは患者の家族の事情によっては必ずしも同伴を強制してはいない。Bの場合、CはBを一人タクシーに乗せ、みずからはタクシーの後をバイクで追って病院から自宅へ帰り、また自宅から病院へ送っていったのであり、時にはBをタクシーに一人で乗せてみずからは後追いをしないで単独帰院させたこともあったが、それでもBは過去予想外の行動をとったことはなかった。そして、本件外泊のころの病状をみるに、Bは依然心気妄想があったが、昭和五六年一二月ころから表情にややゆとりがみられ、作業にも積極的に参加するようになり、他の患者をからかったりする動作もみられ、昭和五七年になっては笑顔もみられ出し、四月ころからテレビをよく見たり歌をうたったりして機嫌もよく、五月にレクリエーションでサファリ・パークに行ったときも楽しく過ごしていて、食欲、睡眠も良好であった。

3  Bの他害の危険性の有無

Bは、昭和五二年に白石内科病院で酵素断食療法を受けて酵素を服用し、また二人の子供にもこれを服用させたことから「酵素を飲んだため腸が溶けた。子供の成長が止まった」という心気妄想をもつに至っていた。しかしながら、心気妄想と他害との関係づけは医学的にも不可能であることは広く知られているのであって、Bが失踪したことから酵素を飲ませた白石医師に対する加害を予見し、同医師に対し警告を発するということは不可能であった。現に過去一七回にわたるBの外泊中には何ら治療を妨げるような事故は発生しておらず、本件事故が発生するかもしれないというがごとき前兆も何ら認めることができなかった。

以上要するに、本件外泊はBの具体的病状からみて、タクシーにより単独帰院させることも含めて医師の専門的裁量に委ねられた範囲内の医療方法であって、社会的にも容認されるものである。

四  被告の主張に対する認否及び原告らの反論

1  被告の主張1の事実は否認する。被告の「外泊は治療の一環である」との主張は建前論にすぎない。緑の園では患者の外泊時の状況を知るために保護者に外泊時の状況を外泊処方箋に記載させて提出させているが、その提出がない場合に保護者に問い合わせて外泊時の患者の状況を把握しようとする姿勢はみられないうえ、自殺注意あるいは離院注意といった患者に対しても外泊許可がなされていたり、外泊許可の申請後改めて患者に面接することなしに許可を与え、家族からの電話での外泊許可申請に対し、電話を受けた看護婦が医師の判断を待つことなく直ちに外泊を許可したりするなど、家族の希望があれば漫然と外泊を許可していたのが実情である。

2  被告の主張2の事実中、緑の園においては外泊の際病院への保護者の迎えは必ず要求していたが、帰院の際はなるべく同伴して下さいとお願いする程度であったことは認め、その余は否認する。

緑の園では閉鎖病棟の患者は外出中の不測の事態を憂慮して二〜三〇〇メートルの外出も付添なしではさせないのであるから、外泊からの帰院も同様の理由から単独でさせるべきではなかった。

また、Bの場合外泊からの帰院が単独であったか同伴者がいたか記録上不明であることが多く、緑の園の外泊管理が杜撰であった。

ところで、本件外泊前のBの病状は良かったとは言い難い。すなわち、Bは、昭和五七年五七年四月一日の田中医師との面接では不眠を訴え、また「日中でも周りから圧迫を受けたり周囲が異様に感じられることがある」と述べ、同月一四日の山下医師との面接では「子供に会ったがやはり死ぬ様な気がした」と述べ、同医師から「外泊時に鼻歌を歌ったようだがとても鼻歌など出そうもない雰囲気」とみられ、五月一三日の田中医師との面接では「入眠困難、抑鬱的、幻視がある」と診療録に記載され、六月三日の山下医師との面接では「家庭では以前より明るくなったというが、なかなか(妄想が)抜き難いようだ、妄想固定、執着性格」と観察され、同月一七日の田中医師との面接でもBは不眠を訴えており、同医師から「心気妄想の固定化がみられる」と観察されている。

3  被告の主張3の事実中、Bが被告主張のような妄想をもっていたことは認め、その余は否認する。

本件外泊許可及びB行方不明後の措置についての山下医師の過失は請求原因一3(三)(2)に記載のとおりである。

また、Bは昭和五七年六月二七日午後三時ころ緑の園に電話で帰院時刻の延期を申し出たが、病院側はこれに対し「時間は守って下さい」と通り一遍の指示をしたのみで、延期の理由、家族から連絡してこない理由などの堀り下げを全く行っていない。病院側は家族に電話を替わるようBに指示するとか何らかの方策をとるべきであった。

4  更に、緑の園の管理体制について被告には次に述べるような過失がある。

第一に、緑の園は許可ベツド数が一六〇床であり、その場合県の医務課が必要と指定する常勤医師は四名であるところ、緑の園の常勤医師は山下医師一人であり、県から改善勧告を受けていたのであって、これでは適切な診療は望むべくもない。

第二に、Bの属していた第一病棟の男子患者に対する主治医の面接は水曜日の午後に限られていたが、第一病棟はベツド数六一床でその半数位が男子患者と思われるところ、半日で約三〇人について面接を行い対話を通じて十分な観察をすることは至難の業であって患者の掌握が不十分であった。

第三に、山下医師はBの保護者であるCとはBが入院した当初一、二回面接したことがあるだけで、以後自殺念慮のある時期も含めて全く面接がなされていない。

第四に、外泊許可の判断に際し看護記録の記載内容も考慮するということであるが、看護記録の記載はBの入院当初は詳細であるが、徐々に記載は減り、昭和五六年後半から月平均五日位しか記載がないのであって、外泊許可の判断に資する内容を具備しているか疑問である。

第三  証拠関係〈省略〉

理由

第一当事者、本件事故の発生

請求権原因1、2の事実はいずれも当事者間に争いがない。

第二被告の責任原因

一1  〈証拠〉を総合すると、Bは昭和五三年四月から妄想型の精神分裂病で緑の園に入院して治療を受けていたが、心気妄想(自己及び二人の子供の内臓に異常はないのに、異常があって余命幾許もないと思い込む妄想)が固定し、本件事故当時心神喪失の状態に陥っていたことを認めることができ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

2  ところで、法定監督義務者(民法七一四条一項)とともに、法定監督義務者との契約によって責任無能力者を預っていた者も代理監督義務者(同条二項)として責任無能力者の行為についての責任を負うものと解すべきであるところ、本件の場合、法定監督義務者は妻Cであるが(精神衛生法二〇条)、Cから委託されて入院治療を引き受けていた被告も代理監督義務者としてBを監督すべき責任があったものというべきである(なお、被告の職員にすぎない山下医師は代理監督義務者には当たらないと解すべきであるから、このことを前提とする原告らの請求はすでに理由がない。)。

なお、被告は精神病院の同意入院患者が外泊して法定監督義務者のもとにいるときの出来事については精神病院は代理監督義務者としての責任を負わないと主張するが、後記認定のとおり、外泊は治療の一環として行われているのであるから、精神病院は入院患者の外泊の許可及び外泊中の遵守事項を決することなどを通して外泊中の患者をも監督すべき契約上の義務があるというべきであるから、原告らの右主張は理由がない。

二そこで、以下被告がBにつき監督義務を怠らなかったかどうかにつき検討する。

1  まずBが罹患していた妄想型の精神分裂病についてみるに、〈証拠〉によれば次の事実が認められる。

精神分裂病は破瓜型、緊張型、妄想型の三つに分類される。Bが罹患していた妄想型は発病が遅く、大多数は三〇なしい三五歳前後に起こってくる。特定の前駆症状もなく、発病もきわ立っていない。この型のものは、人格の障害が比較的軽いので態度、言語は一見して常人と変わらないようにみえることが多い。しかし、比較的まとまった妄想を強固に抱いており(しばしば幻覚を伴う。)、そのため患者の行動はしばしば非常識であり、また不可解であり、ときには緊張性興奮を思わせるような多動状態を示す。それにもかかわらず、滅裂思考や感情鈍麻(無関心)は著明ではなく、疎通性も一般によく保たれているのが常である。

その予後は、稀に寛解(表面的に治ったように見えるがいつ逆戻りするかわからない状態。真の治癒に対し「表面上の治癒」とも言われる。)を示し、社会復帰する場合もあるが、大部分は漸進的に、あるいは一進一退の後、比較的長い経過で、ついには精神荒廃に至る。すなわち、妄想型は病勢の進行が比較的徐々であるから、人格の崩解があまり目立たず、それに反して、妄想はますます強固になつていく。しかし、長年のうちには人格の崩解が起ってくるので、妄想は完全に消失しないまでも、その内容はまとまりのない輪郭の不明瞭なものになってくる。また病者自身もそれに対して、あまり関心を示さなくなり、訴えることを少なくなり、ついには精神荒廃とともに、無為の状態に移行する。しかし、ときには多少とも感情鈍麻を伴った寛解状態で留まることもある。

精神分裂病の治療方法としては、精神療法、薬物療法、生活療法の三つがある。精神療法とは医師らが患者の抱いている不安を除去したり病状を改善することを目的として行う言語(対話)による治療法である。薬物療法とは向精神薬を投与する治療法である。生活療法とは生活指導、作業、レクリェーション、社会復帰活動などを含み、患者を外泊させることは社会復帰活動の一つとして位置づけられている。今日では向精神薬が多数開発され、薬物療法が主体をなしている。しかしながら、これに加えて精神療法的な援助及び生活訓練(生活療法)が実際上きわめて重要であり、薬物と相俟って初めて十分な成果をあげうる。

2  次にBの病状の経過についてみるに、〈証拠〉を総合すると次の事実を認めることができ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(一) Bは昭和一五年三月二〇日宮崎県東諸県郡に生まれ、中学卒業後宮崎市内で自動車修理工として働いて自動車修理二級免許、普通自動車免許を取得し、その後別の会社の車輌係を経て、昭和四四年ころから鹿児島市の運送会社に就職して倉庫係として働き、昭和四六年三月にはCと結婚して二子をもうけたが、結婚当時から胃腸の不調を訴え病院に入通院していたとところ、大高酵素がよく効くと聞くに及んで、昭和五二年に約五か月間白石内科病院に入院して大高酵素を服用する酵素断食療法による治療を受け、その際自宅に外泊したときに大高酵素を二人の子供にも飲ませたりした。ところが、子供が酵素を飲んだ後膀胱炎で血尿したことを契機に、Bは酵素に異物が混入していてそれにより子供らと自分の内臓が溶けたのではないかと不審を抱くようになり、鹿児島大学付属病院ほか数か所の病院で子供を診て貰うといずれも異常なしと言われて増々不審の念が募り、その後仕事を辞めて故郷の宮崎へ戻り、昭和五三年三月一〇日被告が開設している古賀病院の内科に入院したが、不可解な言動が目立ち、翌月一四日医師の指示で緑の園において診察を受けて幻覚妄想状態と診断され、即日緑の園へ転院した。

(二) Bは緑の園に入院後二か月半の病状観察を経た上で昭和五三年七月三日主治医山下医師から妄想型の精神分裂病と診断され、本件事故を起こすまで同病院の閉鎖病棟に入院していた。

Bの妄想は、実際は健康であるのに自分と子供の身体に異常があると確信する心気妄想であり、初めはこれを積極的に口にして表わしていたが、次第に問われれば妄想を述べるというように変わったものの、妄想自体は抜き難いものとなった。すなわち、Bは「鹿児島の病院にいたとき青酸カリか何か飲まされたんじゃないかと思う。それで身体が悪くなった。長い命ではない。もう死んだ方がましだ」(昭和五三年七月二〇日、八月二四日)、「子供の成長が一年程前から止まっている」(七月二〇日、二二日、二八日)、「酵素の入った飲料水を飲んでから自分も子供も身体が悪くなった。もう死んだ方がましだ」(九月一日)、「毒にやられてよくならない、どうしようもない」(九月九日)、「子供の成長が止まった。毒の入った酵素を飲ませたせいだ」(一一月一八日、二九日)などと語るなど、昭和五二年ころ鹿児島の病院で貰った酵素を飲んだせいで自分と子供の身体が悪くなったと思い込む心気妄想及びそれから派生した自殺念慮が継続した。昭和五四年になっても心気妄想は不変で、例えば自宅での外泊後「子供はごはんを少ししか食べないし、遊んでいてもすぐ疲れたといったり、あちこち痛いという。子供には盃一杯しか酵素を飲ませなかったけど、それで小腸が溶けてしまって大腸だけで栄養を採っているからではないか」と涙を流しながら話したりし(三月一二日)、昭和五五年も医師の問いかけに対し「子供二人のことが気になります。鹿児島で大高酵素を飲ませてから子供が食べなくなって成長が止まったようだ。自分だけ飲んで子供には飲ませなければよかった。」(一〇月八日)、昭和五六年も医師の問いかけに「酵素を飲ませたから成長が止まった。今に死ぬ」と子供のことを非常に気にし(七月二二日)、昭和五七年になってからも同様で、六月には心気妄想が固定していて抜き難いと診断されている。

(三) Bは、入院当初、心気妄想のほかに誰かに監視されているという注察妄想、誰かに操られて病院をあちこち転院したという作為体験があり、不眠、不安、ひとりごと、徘徊などが著しく不穏状態であったため五日間保護室に入れられたことがあったが、向精神薬物の投与により不穏状態は消え、以後は閉鎖病棟の大部屋で過ごした。昭和五三年から五四年にかけては、他の患者と冗談を言ったり、五目並べをしたり、コーラスに参加したりして明るいときもあったが、心気妄想を背景とした抑鬱状態は断続的に続いており、また心気妄想から派生した自殺念慮もあって(昭和五四年三月ころ、Bは生命保険会社に対し、他殺後自殺したとき及び自殺のみのときにそれぞれ保険金が支払われるかどうか問合せの手紙を出したことがあった。)、看護婦らは昭和五四年一〇月から翌五五年六月ころまでBを自殺注意患者として病棟看護日誌に記載するなどして注意していたが、昭和五六年後半ころからは自殺をほのめかすような言動はなくなった。一方、昭和五五年ころから感情鈍麻(無関心)が少し目立つようになり、作業やレクリエーションでの動作緩慢、意欲減退がみられ、病棟では他の患者、職員との交流は少なく孤立していることが多くなった。昭和五六年三、四月ころ、一時不眠、不安、吐気等を訴え、易怒的で不穏状態があったが、間もなく落ち着き、その後時々夕方になると床のつなぎ目が分かれるとか壁に模様が見えてくるとか幻視が生じるようになった。昭和五六年一二月ころ表情にややゆとりが見られ、リネン交換や部屋掃除も積極的に参加したり他の患者をからかったりする動作が見られることがあり、翌五七年一、二月ころは話しかけると笑顔が見られたりしたが、時々夜中に目が覚めてそれから眠れないと不眠を訴え、全く活気なく一人で過ごす日もあり、三月ないし五月ころもテレビを観たりカラオケで歌をうたったりして機嫌のよいときもあったが、やはり時々不眠を訴え、一人で過ごしているときもあった。六月も特に変化はなく、同月八日レクリエーションでサファリ・パークに行ったときは一日中他の患者と行動して楽しく過ごしていた。食事はほとんど全食し問題はなかった。

(四) Bは元来大人しく真面目な性格であって、入院中も他の患者との間で問題を起こすことはほとんどなく(昭和五三年八月三日問題のある他の患者から顔に物を投げつけられたとき、翌五四年一月一一日他の患者からお茶をコップ一杯かけられたとき及び同年二月二日(原因判然とせず)と三回他の患者に暴行を加えたことが看護記録上判明しているが、前二回は自分の方から先に手を出したものではない。)、看護婦らの指示にもよく従っていたという。

(五) Bは昭和五三年四月緑の園に入院してからしばらくの間は病状不安定であり、また病状観察、治療期間も不十分であったから外泊は許されなかったが、同年末(一二月三一日から翌年一月三日まで)初めて許可が下りて外泊して以来、希望すればすべて外泊許可が下り、本件外泊を含めて合計一八回外泊した。すなわち、昭和五四年に六回(三月、八月、八月、一〇月、一一月、年末年始)、昭和五五年に五回(四月、六月、一一月、一一月、年末年始)、昭和五六年に四回(二月、六月、八月、年末年始)、昭和五七年に三月と六月(本件外泊)の二回、いずれもほぼ二泊三日(年末年始は三ないし五泊)位の自宅での宿泊であった。

外泊処方箋に記載されたCの観察によれば、Bは第一回目の外泊時は過去に病院を変えて子供にまで酵素を飲ませたことを悔やんでいて、自殺しないかと心配になる状態であったが、昭和五四年末から翌年始にかけて外泊時は、子供に酵素を飲ませたことを反省している点は前と同様だが、やや落ち着きが出てきて、昭和五五年一一月の外泊時以降は子供に酵素を飲ませたことを悔やんでいて子供のことが頭から離れない様子だが、それを口に出す回数は減ってきて、昭和五六年末から翌年始の外泊の時には家の者と話をせず子供のことが頭の中で気になっている様子であったが、以前よりずいぶん良くなったように感じられ、昭和五七年三月の外泊の時は明るくなり前回より良く話すようになって、しかも初めて歌を口ずさんだりしたので、開放病棟へ移ることを勧めたがBはあまり気乗りせず、本件外泊の時も子供とよく話をし、歌を口ずさんだりしていたのであって、CからみたBの外泊中の状態は外泊回数が重なるにつれ落ち着いてきて好転し、昭和五六年末以降はとても明るくなっていた。

3  次に、本件外泊から事故に至る経過についてみるに、〈証拠〉を総合すると、次の事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。

(一) Cは昭和五七年六月二四日午後二時三〇分ころ電話で翌二五日から二七日までのBの外泊を申し出たが、当日山下医師が不在だったため翌朝再度電話をするように言われ、翌日午前一一時ころ電話すると外泊許可が下りたので、午後三時ころいつものようにバイクで緑の園までBを迎えに行き、Bを一人タクシーに乗せて、自分はバイクでそれぞれ自宅に帰った。ところで、山下医師はCから外泊申出に対し、それまでの診療経過によればBの病状は安定しており、前回の外泊以降特に変わった点もなかったので、改めてB本人を診察することなく外泊を許可した。

(二) 本件外泊中のBは、前回の外泊時(昭和五七年三月)と同様歌を口ずさんだりして明るくなり、子供ともよく話をしていた。またCから勧められて庭の水まきをしたが同女の観察によると能率的によくできたと評価されている。

なお、六月二六日午後六時三〇分ころ、Bは緑の園に電話で外泊を二日位延期してほしい旨申し出たが、電話を受けた看護婦は外泊延期はできない旨答え、どうしても延期して欲しいなら一度帰院して改めて許可をとるようにと指導したところ、Bは納得して電話を切った。

六月二七日午後二時三〇分ころ、Cは二泊三日の外泊を終えたBを帰院させるためいつも利用している日の丸タクシーを自宅まで呼び、Bに外泊処方箋、小遣一万円とタクシー代一二〇〇円を渡したうえ、タクシーの運転手に「緑の園までお願いします」と頼み、Bを一人タクシーに乗せて見送った。Cは大抵はタクシーが出た後バイクで近道をして緑の園まで行きBが帰院したのを確認していたが、本件外泊の際は月末で集金(ヤクルトと新聞)の仕事が残っていたので、Bをタクシーに乗せて見送ったのち仕事に出かけ、Bが緑の園に帰院するのをバイクで追跡して確認することをしなかった。

(三) ところが、Bは帰院途中でタクシーの行先を変更し、タクシーを乗り替えて宮交シティ(バスターミナル)へ行き、そこから午後三時ころ電話で緑の園にどうしても済ませたい用事があって帰院が少し遅れるので夕食はいらない旨連絡した。電話に出た指導員は、なるべく早く帰院するように伝えて電話を切った。Bは午後三時三〇分宮交シティ発鹿児島行快速バスに乗車し、午後六時ころ鹿児島市天文館通りで下車し、そこでタクシーに乗って運転手に金物屋へ連れて行くよう指示し、同市与次郎浜一丁目四番一八号の三木金物店の前で下車、そこで刺身包丁二本を買い求めた。午後六時二八分市内のホテルユニオン(西田二丁目一二番三四号)に到着し、宿泊名簿に偽名「北野吉雄」と記載し、住所は存在しない「宮崎市吉村町」と記載した。Bは同ホテルに一泊し、翌二八日午前九時ころ白石内科病院へ行って本当の氏名、住所、年齢を述べて受付を済ませ、自分で検温、採尿の後待合室で待っていた。しばらくして診察室に呼ばれたので便所に行って風呂敷から出した包丁二本を左右にバンドに刺し、これを上衣で隠して診察室に入った。診察室での看護婦から上衣を脱ぐよう促されたとき、上衣を脱いだら包丁が見つかってどうしようもないと思い、包丁を手にとって背中を向けていた白石医師の背中を刺し、本件事故を惹起したものである。

(四) 本件事故発生までの緑の園の対応は次のとおりである。

六月二七日午後六時ころ、Cは緑の園が七月閉院となるためBを古賀総合病院へ転院させる同意書を緑の園に持参し、看護婦詰所の窓口にこれを置いて帰宅しすぐまた集金の仕事に出かけた。Cが同意書を持参したとき電話応待していた鈴木看護婦は、BがCと一緒に帰院していないので不審に思い、Cが自宅に帰ったところを見図らって電話をしたが連絡がつかず、午後八時過ぎにCに電話で連絡がとれたのでBが帰院していないことを伝えると、Cから既に午後二時三〇分ころ日の丸タクシーに乗せて帰院させた旨知らされた。そこで鈴木看護婦は直ちに病棟婦長栗野ケサエの自宅に電話し、Bが行方不明になったことを伝えた。同婦長は直ちに山下医師にこれを伝えて指示を仰ぎ、同医師から、Cに心当たりの所に連絡をとらせ、捜索願を出させるよう指示を受けたのでこれを鈴木看護婦に伝えた。Cは午後九時ころ緑の園に駆けつけると、既に来ていた栗野婦長から捜索願を出すように促されたが、自宅に戻ってBの実家に電話してみてから出すことにし、帰宅してBの実家に電話したがBは行っていないということであったので、午後九時三〇分ころ宮崎県北警察署に捜索願を提出した。Cは午後一〇時ころまで緑の園と連絡を取り合い、以後は自宅で待機していたが、結局翌朝になってもBは帰宅しなかった。

六月二八日午前九時四〇分ころ、鹿児島県の西警察署から緑の園及びCに対し本件事故発生の連絡があった。

(五) 本件事故後、刑事々件の責任能力判定のため、Bの精神鑑定を行った横山博徳医師がBから聴取したところ、Bは、昭和五七年六月二七日午後二時三〇分ころ日の丸タクシーに乗ってから途中で、鹿児島に行って白石医師に会い酵素の中に何か内臓が溶けるようなものが入っていなかったか尋ねようと思ったこと、その時点では酵素の中に何か入っていたらどうするかということまでは考えていなかったこと、鹿児島の天文館でタクシーに乗ったとき、酵素の中に毒が入っていたことがわかったら白石医師を刺そうと思ったこと、緑の園に入院中は子供の内臓が溶けている、どうしようかということしか考えてなく、白石医師に会おうなどという気持はなかったことをそれぞれ陳述している。

4  次に、緑の園の診療・管理体制についてみるに、〈証拠〉を総合すると次の事実を認めることでき、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(一) 緑の園は昭和三四年三月に開設された精神病院(精神科、神経科)であり、本件事故当時許可ベツド数は一六〇床(閉鎖病棟一一五床、開放病棟四五床)、現実の入院患者数は一五七名であった。常勤医師は山下医師一人であり、同医師が入院患者全員の主治医となっていた(なお、緑の園は県の医務課の基準によれば四名の常勤医師が必要とされ、県から改善勧告を受けていた。)。非常勤医師は合計一四、五名いたが、精神科の医師はそのうち二名位であった。

緑の園は閉鎖病棟二棟(第一病棟六四床、第三病棟五一床)と開放病棟(第二病棟四五床)の三棟があり、開放病棟は生活療法を主体としており、単身者や家族の引受けがない患者たちを収容して社会復帰のための訓練をしていた。閉鎖病棟も原則として大部屋で生活しており、自由に中庭や食堂兼娯楽室に出入することができるようになっていて、病院内の生活は開放病棟と大差なく、主な違いは開放病棟の場合は許可を得れば病院側の付添がなくても患者同士で外出ができるが、閉鎖病棟の場合は一律付添がないと外出できないようになっていること位である。このような状況もあって、Bが入院していた第一病棟(閉鎖病棟)と第二病棟(開放病棟)とで精神分裂病患者の退院状況(昭和五五年ないし五七年の年平均)を比較してみると、第一病棟二四人、第二病棟一〇人、外泊件数(同様の年平均)を比較してみると第一病棟一三三件、第二病棟二二四件であって、退院していく率は閉鎖病棟の方が高く、また閉鎖病棟からの外泊も少なくなく、閉鎖病棟の患者の病状が良くなれば開放病棟に移り退院に備えるというシステムをとっているわけではないこと(すなわち、閉鎖病棟の患者でも病状は様々であって社会復帰間近の者もいること)が明らかである。

(二) 緑の園では、前記二に述べた治療法にのっとり、治療の目的は社会復帰にあり、そのための第一歩として家庭(自宅)への外泊を位置づけ、外泊を通して病状の改善を期待するとともに、病院内で適応を示している患者が家庭においても適用を示すか観察している。

外泊の手続きは、保護者から外泊許可の申請があると、山下医師の下へ病棟婦長あるいはケースワーカーが診療録及び看護日誌を持参し、同医師においてそれまでのみずからの診察結果の記憶、診療録、看護日誌の各記載、病棟婦長あるいはケースワーカーからの聴取に基づいて、患者の妄想、幻覚が表に出ていて動揺があり、不穏な言動、不眠、食欲減退などの症状がないかをチェックし、それらの症状がなければ外泊を許可していた。

緑の園では、外泊の治療目的を効果あらしめるため、外泊の際保護者に「外泊処方箋」なる書面を渡していた。それには外泊の目的(病状観察、治療の手段等)、外泊期間、医師の指示事項等が記載されているほか、患者の外泊中の状況観察事項一二項目の記載欄があり、保護者が各項目ごとに丸をつけたり、具体的に記入することになっていて、外泊を終えて患者が帰院したとき、同伴の保護者又は患者が病院に提出するようになっていた。外泊処方箋の提出がないときには、看護婦が患者を同伴してきた保護者に外泊中の患者の状態を尋ねたり、保護者に電話で尋ねたり、あるいは患者自身に尋ねたりするなどして、できるだけ外泊中の患者の状態を把握するよう努めていた。

Bの場合、本件外泊を除く一七回の外泊のうち、外泊処方箋の提出があったのが八回であり、他は前回の外泊時と変わったところがなかったりしたことなどから提出されなかった。提出されなかったとき、病院側はCに電話で外泊状況を問合わせたことが数回あったが、Cは仕事で外出していることが多かったので問合せをしないこともあった。

(三) 入院患者が外泊する場合の保護者による送迎については、緑の園では、病院から自宅に向う際には常に保護者が迎えに来ることを要求し、病院で保護者に外泊処方箋と薬を渡し、患者を引渡していた。そのようにしていたのは、入院患者を確実に帰宅させるためであるが、付随的には患者の病状、衣類の交換、小遣銭その他について保護者と病院でコミュニケーションをとり合いあるいは深めることなども意図されていた。逆に患者が外泊先から病院へ戻ってくる際には常に保護者同伴を要求することはせず、できるだけ家族の者が一緒についてきて欲しいと要望していたにとどまった。そのようにしていたのは保護者の都合を主として考慮したものであるが、また、外泊中家庭で患者に大きな変化がなければ、患者は単独で帰院させることも社会復帰を目指す治療の一環としての外泊の目的に副わないものではないとの考えもあってのことであった。

Bの場合、生活保護を受けていたCは送迎のタクシー代(片道約一一〇〇円)の負担を軽減するため、Bの帰宅の際には、バイクで緑の園まで迎えに行き、病院でBを一人タクシーに乗せて自宅まで帰らせ、みずからは病院から自宅までバイクで近道を通って帰り、ほぼ同時に自宅に着くという方法をとっていた。病院へ帰るときも、自宅にタクシーを呼んでB一人を乗せて緑の園まで送り届けてくれるよう依頼し、みずからはバイクで近道を通って緑の園まで行き、Bの帰院を見届けて帰るという方法をとっていた。ただ、Cは仕事(ヤクルト配達、集金及び新聞配達、集金)が忙しいときなどには自宅にタクシーを呼んでBを乗せ、運転手に緑の園まで送り届けてくれるよう頼んでみずからは見送るだけのこともあった。右のような送迎方法であったが、本件外泊を除く一七回の外泊で一人でタクシーに乗せたBが行先を変更するなど予定外の行動をとったことは一度もなかった。

5 ところで、精神病院の入院患者が治療の一環として保護者の下に外泊中他人に害を加えた場合、その病院が当該入院患者に対し監督義務を尽くしていたといえるかどうかを判断するにあたっては、外泊は入院患者の病状を改善し、社会復帰をはかるための重要な治療方法であって、主治医の専門的裁量の余地があること、外泊中入院患者は法定監督義務者の直接の監督下に置かれていて、病院の監督は右法定監督義務者を通しての間接的なものとならざるをえないことを考慮したうえで、当該入院患者の具体的病状から予想される他害の危険性はどの程度であったか、その危険性の程度に応じた予防措置がとられていたかを検討することが必要である。

(一)  前記認定の事実によれば、

(1)  Bは緑の園に入院して以来一貫して、白石内科病院で投薬された酵素を飲んだときその中に異物が入っていて、それにより自分と二人の子供の内臓が溶けて子供の成長は止まり、三人の余命は幾許もないといった心気妄想を抱いており、昭和五五年ころまで右妄想からくる後悔及び悲観の念の余り自殺念慮を持つことはあったものの、白石内科病院の白石医師に対する積極的な非難、加害意思を窺わせる言動は医師、看護婦らに対しては勿論Cに対しても全く認められなかった(なお、Bは昭和五四年三月ころ生命保険会社へ人を殺して自殺したとき及びただ自殺したときにそれぞれ保険金が支払われるかどうかを照会しているが、これを自殺念慮の表われとみることはできても、これのみによって直ちに白石医師に対する加害意思の表われとみることは、他にそのような言動が全く見られないことに照らし困難である。)。

(2)  Bの病状は、入院当初と昭和五六年三、四月ころの一時期不穏状態があったのみで、その他の時期はほぼ安定しており、本件外泊の前も時折不眠を訴える程度で安定していた。そして、本件外泊の前回(昭和五七年三月)及び前々回(昭和五六年末から昭和五七年始)の外泊では、Bは従前の外泊時と比べて自宅で子供らとよく話をし、また歌を口ずさんだりするようになり、CがBの病状改善に期待を抱いたりする程であった。

(3)  緑の園は、右のような病状のBを外泊させるにあたって、法定監督義務者であるCにBを確実に引渡してCの直接の監督の下に置き、帰院するときはできるだけ同伴を要求するにとどめ、具体的に帰院時に同伴する必要があるかどうかをCの観察、判断に任せたものである。

なお、過去一七回の外泊では、帰院はすべてBが一人でタクシーに乗って緑の園まで帰っており、またその内には何回かCがバイクでタクシーを追いかけてBの帰院を確認するということをしなかったこともあったが(前掲乙第一四号証によれば、単独帰院か同伴での帰院かなど帰院状況が必ずしも記録に残されていないことが認められるが、これらの事項は病状観察の一資料にすぎず、常に記録に残されねばならないというものでもないのであって、これをもって被告がBの監督を怠ったとは言えない。)、いずれの場合もBは問題を起こすことはなかった。右事実によれば、入院中のBが白石医師を含めて第三者に対し加害意思をもっていたことは窺えず、また本件外泊前のBの病状は安定していたのであるから、山下医師が本件外泊を許可するにあたり、帰院の方法について、従前通り保護者の同伴を要望するにとどめ、同伴するかどうかの最終的判断を、外泊中のBの様子を直接観察している法定監督義務者であるCに委ねたことは、社会復帰(自立)のための治療法として位置づけられた外泊の取扱いとして落度があったものとは言い難い。

(二)  原告らは、緑の園では閉鎖病棟患者について付添なしで病院から外出することを許していないのに、外泊の際単独帰院を容認しているのは外泊管理が杜撰であることを示すものであると主張する。

しかしながら、〈証拠〉によれば、閉鎖病棟患者について病院からの付添なしの外出を一律禁止しているのは、全入院患者にこれを認めるとその許否の判断に多大の事務的負担を要し、また、患者間に不公平感、不満を産むことになるので、これを避けようとするものであって、本来個々の患者につき外出中常に付添が必要であると判断しているものではないことが窺えるから、外泊時の帰院方法につき個々の患者ごとに付添の要否を決することを認めているのは、これと何ら矛盾するものではなく、杜撰な管理であるとは言えない。

(三)  また原告らは、山下医師はBの行方不明が発覚した時点で直ちに警察に通報をなし、かつ、Bが怨みをもっていた白石医師に対し電話連絡をするなどの措置をとるべきであった旨主張する。

しかしながら、前記認定のとおり、Bには当時白石医師に対する加害意思を窺わせる事実は勿論自傷他害の具体的危険性もなかったうえ、本件外泊前の病状は不穏な状態ではなく、また行方不明となる前にBから緑の園へ用事で帰院時刻が遅れるので夕食はいらない旨電話連絡が入っていたこと(その電話に出た指導員がなるべく早く帰院するように伝えて電話を切ったことも、当時のBの病状に照らせば落度とは言い難い。)などの事情に鑑みれば、Bに自傷他害の具体的危険性があったことを前提とした原告らの右主張は失当である。

(四)  更に原告らは、緑の園の管理体制の不備を主張する。〈証拠〉を総合すると、確かに、緑の園の常勤医師は山下医師一人であったこと、県の医務課が必要と指定する常勤医師は緑の園の場合四名であって緑の園は県から改善勧告を受けていたこと、Bが入院していた第一病棟(六一床)の男子患者に対する山下医師の面接は毎週水曜日の午後に予定されていたが、毎週全員と面接することは時間的にできなかったこと、山下医師が外泊許否を判断するための資料の一つである看護記録の記載内容は、Bの場合入院後一年位までは詳細に記載されていたが、その後は一般的に記載は少なくなってきたこと、山下医師がBの保護者であるCとBのことについて面談したのは入院当初の一、二回のみでその後は全く面談はなされていないことが認められるが、他方、緑の園では非常勤医師一四、五名がいて、そのうち精神科医が二名いたこと、面接は山下医師のほか非常勤の精神科医も行って診療録に病状観察等を記載しており、Bについてみると、入院期間四年三か月の間山下医師との面接は四七回、非常勤医師とのものは二八回あり、とくに入院当初は病状把握のために月三回位行い、その後病状が安定してくると回数は減っているが、そのこと自体は不合理なことではないこと、看護記録の記載も病状が安定している時期には少ないが、病状に変化がある場合(例えば昭和五六年三、四月ころ)には詳しく記載されているのであって、患者の病状把握のための一資料としては十分であること、外泊許否の判断は看護記録のほか山下医師みずからの面接結果、診療録の記載、病棟婦長又はケースワーカーからの聴取内容等をもとに行われていることが認められ、また山下医師が直接Cと面談して説明しなければならないような病状あるいは病状の変化があったことは窺えないのであって、これらの事実に照らせば、前記事実が認められるからといって、それが緑の園がBに対する監督義務を怠ったということに結びつくものではなく、原告らの右主張も理由がない。

三以上のとおり、被告は山下医師を中心とする緑の園の職員を通じてBの監督を怠らなかったといえるから、原告らの被告に対する責任無能力者の代理監督義務者の責任(民法七一四条二項)を求める請求は理由がない。

また、原告らは被告の使用者責任(同法七一五条)を追及する基礎として山下医師の不法行為責任(同法七〇九条)を主張するが、前記のとおり、山下医師には本件事故発生の予見可能性がなかったのであるから、同医師の過失責任を問うことはできない。

結局、原告らの被告に対する請求はいずれも理由がないことに帰する。

第三よって、原告らの本件各請求は失当としてこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官下村浩藏 裁判官岸和田羊一 裁判官坂梨喬)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例